立石武泰さん × 八尋由紀社長 前編
古代から江戸時代まで〜博多の港の歴史を振り返る

日本の伝統的な文化は、博多から全国へ広がった

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立石さん

時代が下って、平清盛のころには、船も以前よりも大きくなります。喫水(船の最低部から水面までの距離)が3、4メートル、船の長さはだいたい37メートルと言いますから、かなり大きいですね。でも、この大きさであれば、少し沖の方に止めて桟橋を作るなり、小舟で船と海岸を往復すればいいので、遠浅の天然の港がそのまま利用できたんです。

八尋

本格的な港はいつどこにできるんですか?

立石さん

鎌倉時代に呉服町のあたりにできた港が最初です。御供所や旧・魚町あたりに土地が高くなっているところがありますね。あれは、元寇の際に博多の街を守るために築かれた土居という城壁の一部です。石堂川から博多川まで、約900メートル続いています。鎌倉鎮西探題はこの土居や水濠という城郭都市・博多の名残を利用し、元寇後30年ほどかけて「袖の湊」という人工港を築き上げたのです。

絢子

この港からいろいろな文化が日本に上陸したんですね。

立石さん

そうですね。それが現在のすばらしい日本文化になりました。中国の文化をそのままなぞるのではなくて、どんどん改良していって、文化レベルが高くなっていきました。

八尋

ほかの文化をローカライズして高めるというのは、日本人の得意技ですね。袖の湊の果たした役割の大きさを感じます。

立石さん

袖の湊は戦国時代末期まで国際貿易港としての役割を担いました。今でも「博多五町」というバス停がありますが、実はこれは、袖の湊の竣工とともに生まれた船具・金融機関・倉庫など港湾施設のある町のことです。五町の一つである蔵本町の地名の由来は、豊臣秀吉がこの場所に蔵を建てたからという説がありますが、それは誤りです。秀吉は名護屋に蔵を造っちゃったので、ここには建てていません。蔵があったのは鎌倉・室町時代のことですね。こういう人々の間で共有される記憶って700年はもつんですよ。でも、700年を超えるとなぜか記憶がスッと消えてしまう。不思議なものです。

八尋

実は八尋家のルーツは堺の廻船問屋なんですが、織田信長の日蓮宗弾圧のために、博多に逃げ落ちてきたんです。それが約600年前のことです。

立石さん

ご先祖様は堺よりも博多の方が地政学的にも良いと考えていたのかもしれませんね。堺と博多はライバル関係にあって、中国での宴会の最中に席次のことで大乱闘を繰り広げたという記録も残っています。喧嘩もしていますが、当然のことながら、情報交換も行っているはずです。堺がダメなら博多に移るというのは当然の考えだったかもしれません。

八尋

700年たって記憶が消えてしまう前に、八尋の歴史を残しておかなければなりませんね。