立石武泰さん × 八尋由紀社長 前編
古代から江戸時代まで〜博多の港の歴史を振り返る

博多商人のパワーには、豊臣秀吉も一目置いた

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立石さん

戦国時代末期になるとより高度な造船技術が伝わり、船舶が大型化します。そうなると、遠浅の海では港湾機能が果たせなくなり、リアス式海岸の港が求められるようになっていきました。そして、八尋さんのご先祖さまをひどい目に遭わせた織田信長が倒れ、豊臣秀吉の時代を迎えます。秀吉と博多商人の間には深い関わりがありました。

乃美

「太閤町割り」という秀吉が行った都市整備は有名ですよね。

立石さん

その少し前、秀吉は島津氏を倒すために九州に入るのですが、本当の狙いは長崎にあったんです。長崎は当時は寒村でしたが、大型船が停泊できるので、イエズス会やポルトガルが目を付けました。彼らは当時そこを治めていた大友純忠という大名にお金を貸して、金利で首が回らないようにして、その代償として長崎を取り上げたんです。

藤野

今、中国がアフリカ諸国に対して行っている政策みたい。「債務の罠」というわけですね。

立石さん

まさにその通りですね。秀吉はイエズス会が長崎から筥崎宮沖に回航してきたポルトガルの大砲で武装し高速移動するフスタ船を見て縮み上がりました。「日本が植民地化されてしまう」と肌で感じたんです。すぐに箱崎宮で禁教令(伴天連追放令)を発令して、長崎でのヨーロッパ人の権益をすべて取り上げるんですね。そして、その後に長崎に送り込まれたのが博多商人だったんです。彼らは長崎に支店を構えます。いわゆる補助金も出たこともあって、博多の人口の半分が移りました。江戸時代に入ると博多商人たちは、出島築造に出資し、長崎港の整備に貢献します。長崎の街を形作ったのは末次興善らを中心とした博多商人だったんです。だから、長崎は「NEW博多」と言ってもいいでしょう。

八尋

当時の博多商人は、フットワークが軽いというか、すごく柔軟ですね。

立石さん

これも発想の転換ですよね。一方で博多に残った本家の人たちは、千石船で日本海に乗り出して商売を行います。そして、戦国末期から登場した神屋宗湛、島井宗室といった豪商たちが活躍し、長崎とリンクして、博多商人の栄華は続いていきました。

八尋

船舶が大型化したことで、博多の存在価値が下がったということはないのですか?

立石さん

それが、江戸幕府が船の大きさを千石積み以下に制限したことが幸いしました。中世の貿易船レベルの大きさだったので、博多の「湊」でも対応できたのです。
明治になると世の中が変わって、近代的な港が築かれます。そして、戦争を挟んで博多港は日本の重要港になっていくのです。

後編では、立石ガクブチ店で展示されているスケッチ画を見ながら、博多港が現在の姿になるまでの過程をたどります。