立石武泰さん × 八尋由紀社長 後編
井上壽一氏のスケッチが語る、ありし日の博多港

13年の歳月を費やし港は竣工するも戦争の時代へ
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立石さん
堤防ができて灯台もできて、倉庫も徐々に建ち始めます。昭和16(1941)年の絵を見ると、輸送船が入ってきています。5月に描かれたものですから、太平洋戦争の開戦まで半年あまりですね。これで、ひとまず埠頭の完成を見たということになります。着工してからおよそ13年の歳月が流れています。
八尋
13年って、工期としては結構短い気がします。工事の障害となるようなものは、あまりなかったのでしょうか?
立石さん
掘るのは大変だったようですが、水深が浅いので埋めるのは難しくはなかったようですね。壽一さんの絵と共に、博多の昭和2(1927)年と昭和15(1940)年の地図を掲示しているので、見比べてみましょう。昭和15年の地図には太い道ができています。これは現在の大博通りです。日米開戦に備えて、戦闘機隼の緊急時の滑走路にしようと、陸軍が道幅を広げたのです。市民には、戦争に勝って帰ってきた時にパレードする凱旋道路だと伝えていました。その一方、道も広くなって便利になったんだからと、周辺の住民からちゃっかり負担金を徴収しました。うちは1本通りが違ったのに、やはりお金を取られたそうです。当然ですが、昭和2年の地図には中央埠頭はありませんが、昭和15年には地図にも載っています。でも、おかしなことに昭和16(1941)年の地図からは中央埠頭が消えているんです。軍事的な機密保持のためでしょう。

藤野
でも、地図の隣に掲示されているアメリカ軍が空撮した写真には、中央埠頭がバッチリ写っている。こうなると、地図から消しても、埠頭の存在は隠しきれませんね。
立石さん
終戦を迎えてしばらくたった、昭和29(1954)年の埠頭を描いた絵もあります。もっと前の話ですが、中央埠頭では大陸からの引揚者を受け入れました。約139万人の方々が中国や朝鮮から帰ってこられたそうです。
八尋
相互運輸が創業したのは昭和28(1953)年なので、この絵の前年ということですね。当時の社名は相互運送でした。