九州大学 伊藤幸司教授 × 八尋由紀社長
目から鱗の連続!中世の博多にタイムスリップ

外交の中心から貿易の場へと変わった鴻臚館
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伊藤教授
ご存じの通り、博多は地政学的に日本でもっともアジアに近い。当然、この地域がアジアとの交流の拠点となっていきます。当時の九州を統括していたのが大宰府です。しかし、大宰府には海がない。そこで、海の近くに海外との交流の施設をつくります。それが鴻臚館ですね。
八尋
かつての平和台球場の下から遺跡が出てきたんですよね。平和台球場へは、よく野球を観に行っていました。
伊藤教授
昔の地図で見ると、鴻臚館の場所は、博多湾に突き出た台地の上です。高台なので、博多湾も含めて周囲がぐるりと見渡せたわけです。
八尋
鴻臚館は、いまで言う迎賓館ですよね。
伊藤教授
外交使節のための迎賓館ですね。実は鴻臚館があったのは博多だけではないんですよ。大阪や京都にもありました。しかし、大阪(難波)や京都のどこにあったかまでは確認されていません。
八尋
博多の鴻臚館が、唯一、場所が確定しているということですね。
伊藤教授
大宰府の外港として機能していた鴻臚館ですが、9世紀、日本の平安時代になると様子が変わってきます。東アジアの海に貿易商人(海商)が出てくるんです。
八尋
時代とともに航海技術が上がったんですね。
伊藤教授
その通りです。海の向こうに陸地が見えなくても船で海原に乗り出す海商たちが日本を訪れるようになります。教科書にも出てくる遣唐使は、838年を最後に派遣されなくなります。海商が日本に海外から物品をもたらすようになったので、わざわざ遣唐使を送る必要性が低下したのです。
八尋
必然的に鴻臚館の役割も変わりますね。
伊藤教授
かつて「外交の場」だった鴻臚館は、時代の変遷とともに「貿易の場」へと変容していきます。