九州大学 伊藤幸司教授 × 八尋由紀社長
目から鱗の連続!中世の博多にタイムスリップ

国際貿易の舞台、博多は浮島だった!?
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八尋
「貿易の場」となった鴻臚館はどんな感じだったんでしょう?
伊藤教授
鴻臚館を管理していたのは大宰府です。「管理」と言うと、窮屈なイメージで、あまりいい印象をもたれないかもしれませんが、海商からすると貿易の安心安全が保証されているのはありがたい。物品を持って来たのに「取引が成立しませんでした」ではマズいですからね。確実に取引が成立するというのは、海商にとっても望ましい状態でした。
八尋
大宰府にとっても、目が届く範囲で貿易が行われていれば安心ですよね。お互いにハッピーだったと。
伊藤教授
ところが鴻臚館は、1047年に放火されて炎上してしまうんです。
八尋
放火! なにが目的だったんですか?
伊藤教授
記録によると犯人は捕まっていますが、その目的は書かれていません。しかし、放火であることは間違いないですね。
八尋
なにか盗もうとしたのかしら。
伊藤教授
そうかもしれませんね。先ほどもお話したように鴻臚館を管理しているのは大宰府でした。せっかくの管理貿易の現場が燃えてしまった。でも、大宰府は鴻臚館を再建しようとはしませんでした。代わりに、貿易の場を地図で見ると海を挟んだ場所に移します。
鴻臚館から博多へ
- 永承2年(1047)鴻臚館が焼失
- 鴻臚館は再建されず、貿易の場は博多津へ

八尋
博多津ですね。
伊藤教授
そうなんです。なぜ、彼らは博多を選んだのか? そこには博多の地形が大きく影響しています。実はそのころの博多は浮島だったんです。博多は那珂川と御笠川(比惠川)の河口にできた砂丘がベースになっています。中国や朝鮮の文献でも「博多島」という呼称を目にします。16世紀に入ってもまだ「博多島」と呼ばれていました。外国人には「博多は島である」という認識が間違いなくあったんですね。
八尋
島だから外国から来た海商を隔離するのにも、ちょうどよかったということか。
伊藤教授
孤立した空間なので都合がいい。わざわざ建物を造るのも面倒ですしね。実は江戸時代にも同じような発想で管理貿易の場を造りましたね。そう、長崎の出島です。そのルーツは博多だったんです。