九州大学 伊藤幸司教授 × 八尋由紀社長
目から鱗の連続!中世の博多にタイムスリップ

宋の海商たちが築いた博多の町

(4 / 15)

八尋

鴻臚館が炎上したことがきっかけとなって、博多の町ができたんですね。

伊藤教授

博多の本格的なスタートは宋人居留地、いわゆる「唐房」です。大陸の宋という国からやってきた商人たちが、大宰府から「ここで貿易をしなさい」と言われて、博多に住み着くんです。それから町が発展していくわけです。

八尋

どうして唐房の存在がわかったんですか?

伊藤教授

1977年、福岡市営地下鉄空港線の工事が始まった際に、博多のど真ん中を掘ったところ、陶磁器がザクザクと出てきたんです。こういうツルツルした固い焼き物は当時の日本では作れないので、明らかに輸入品です。貿易品なので貿易陶磁器と呼ばれています。すさまじい量の陶磁器が出ており、しかも中国人名も書かれたものもあるということで、唐房つまり宋人の居住区が存在したのではないかと。

八尋

九州は焼き物の産地がたくさんあるけど、このころは作っていなかったんですね。

伊藤教授

伊万里や唐津などで陶磁器が焼かれるようになったのは、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に、朝鮮から陶工を連れて来てからです。本格的に作られるようになったのは、江戸時代以降ですね。

八尋

唐房の場所はいまで言うどのあたりなんでしょう。

伊藤教授

櫛田神社のあたりじゃないかと言われています。宋の海商は、現在の中国の浙江省や福建省方面から来ています。長江の南、いわゆる江南エリアですね。当時の中国の海外貿易の一大拠点です。

八尋

当然、日本以外の地域とも貿易をしているんですよね。

伊藤教授

メインは東南アジアです。中国では採れないものが東南アジアにはたくさんある。そう考えると、宋にとって、日本は東南アジアよりもウエイトが低いと言えます。この点はいまの中国の日本への姿勢と同じですね。

八尋

唐房は日本以外にもあったんですか?

伊藤教授

宋の海商は、渡航先にバンバン居留地をつくるんです。もちろん、東南アジアでも同様に唐房のようなものを形成しています。