九州大学 伊藤幸司教授 × 八尋由紀社長
目から鱗の連続!中世の博多にタイムスリップ

宋の海商たちが築いた博多の町
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八尋
鴻臚館が炎上したことがきっかけとなって、博多の町ができたんですね。
伊藤教授
博多の本格的なスタートは宋人居留地、いわゆる「唐房」です。大陸の宋という国からやってきた商人たちが、大宰府から「ここで貿易をしなさい」と言われて、博多に住み着くんです。それから町が発展していくわけです。
八尋
どうして唐房の存在がわかったんですか?
伊藤教授
1977年、福岡市営地下鉄空港線の工事が始まった際に、博多のど真ん中を掘ったところ、陶磁器がザクザクと出てきたんです。こういうツルツルした固い焼き物は当時の日本では作れないので、明らかに輸入品です。貿易品なので貿易陶磁器と呼ばれています。すさまじい量の陶磁器が出ており、しかも中国人名も書かれたものもあるということで、唐房つまり宋人の居住区が存在したのではないかと。
八尋
九州は焼き物の産地がたくさんあるけど、このころは作っていなかったんですね。
伊藤教授
伊万里や唐津などで陶磁器が焼かれるようになったのは、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に、朝鮮から陶工を連れて来てからです。本格的に作られるようになったのは、江戸時代以降ですね。
八尋
唐房の場所はいまで言うどのあたりなんでしょう。
伊藤教授
櫛田神社のあたりじゃないかと言われています。宋の海商は、現在の中国の浙江省や福建省方面から来ています。長江の南、いわゆる江南エリアですね。当時の中国の海外貿易の一大拠点です。
八尋
当然、日本以外の地域とも貿易をしているんですよね。
伊藤教授
メインは東南アジアです。中国では採れないものが東南アジアにはたくさんある。そう考えると、宋にとって、日本は東南アジアよりもウエイトが低いと言えます。この点はいまの中国の日本への姿勢と同じですね。
八尋
唐房は日本以外にもあったんですか?
伊藤教授
宋の海商は、渡航先にバンバン居留地をつくるんです。もちろん、東南アジアでも同様に唐房のようなものを形成しています。