九州大学 伊藤幸司教授 × 八尋由紀社長
目から鱗の連続!中世の博多にタイムスリップ

北部九州の随所に残る大陸文化の痕跡
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伊藤教授
これまで見てきた通り、博多は大陸とも国内の消費地ともつながっているということで、非常に立地がいい。だから、大陸からいろいろな文化が入ってきますし、その文化が、国内で経済的に博多とつながっているところに、広がっていくわけです。
八尋
博多にも大陸の文化が残っているということですよね。
伊藤教授
博多湾の港町でいうと箱崎で、大陸文化の名残を見ることができます。筥崎宮の参道沿いに恵光院というお寺がひっそりと建っているのですが、そこに行くと南宋の石仏や塔を見ることができます。久山町の首羅山には、薩摩塔と呼ばれる石塔があります。これは宋人が航海安全を祈って奉納したのではないかと言われています。
八尋
鹿児島は福岡から遠いですけど、なぜ薩摩塔と呼ばれるのですか?
伊藤教授
最初に鹿児島県で注目されて、薩摩にしかないと思われていたんですよ。でも、探してみると北部九州に多かったので、この名称はどうかとも思うんですけど、名称が普及してしまっていたのでどうしようもない。この薩摩塔の材料は中国の石で、日本での分布を調べてみると、やはり、大陸からの海商が足を運んだ土地に多く見られます。
八尋
これも航海の安全を祈願して造られたものなんでしょうね。


伊藤教授
宗像大社には阿弥陀経石というものがあります。これも中国の石を彫って造ったものです。宗像大社の偉い人は宗像大宮司といいます。これは鎌倉時代のことですが、宗像大宮司の妻は、2代続いて博多の宋海商の娘だったんですよ。
八尋
すごくインターナショナルだったんですね!
伊藤教授
宋人は博多の町に住み着いていますから、普通に日本人と結婚するわけです。こうして中国の文化が博多に浸透していきます。遣唐使の時代にも中国文化は日本に入ってきましたが、そのころは洛陽や長安など黄河流域の文化が中心でした。一方で博多にもたらされたのは、宋海商の故郷である江南地方の文化です。この地方の文化は、その後の日本文化に大きな影響を与えます。