九州大学 伊藤幸司教授 × 八尋由紀社長
目から鱗の連続!中世の博多にタイムスリップ

二元支配体制のもと発展を続ける

(12 / 15)

伊藤教授

国際情勢はどんどん変わっていきます。中国では、宋がモンゴルの元に変わり、続いて明という国が覇権を握ります。朝鮮半島も高麗が滅んで朝鮮が建国されます。

八尋

そんななかで、博多もポジションが変わっていったのでは?

伊藤教授

15世紀に朝鮮の人が書いた本の中で博多が紹介されています。このころには、琉球でも貿易が発展してきますし、東南アジアの南蛮船が航行するようになりますが、博多にはそれらが集まっていると。朝鮮に渡って商売をする博多の人もすごく多いとも書かれています。これらの記述を読むと、宋人が住み着いた11世紀後半の唐房の時代から、博多がずっと国際貿易港としての地位を維持してきたということがわかります。

八尋

当時の博多を管理していたのは、もう大宰府ではないわけですよね。

伊藤教授

室町から戦国時代の博多は二元支配体制と言われています。博多湾には息浜と博多浜という2つの浜がありました。そのうちの息浜を支配していたのが、大分を本拠としていた大友氏。一方の博多浜を支配していたのが大内氏。こちらの本拠地は山口です。

八尋

地元・福岡の大名が支配していたわけではないんですね。

室町・戦国時代の博多の支配者(二元支配体制)

中世後半期「博多」推定復原図(15〜16世紀)
図の出典は網野善彦・石井進編『中世の風景を読む7 東シナ海を囲む中世世界』(新人物往来社、1995年)。
中世の博多湾。出典は伊藤幸司『中世の博多とアジア』(勉誠出版、2021年)。

伊藤教授

博多のある筑前国は細かい勢力が割拠していて、飛び抜けて強いやつが出ないんですよね。博多商人からしてみれば、自分たちを守ってくれるのであれば、外から来た人でも構わない。実際に大友、大内が頼りになったんですよ。

八尋

博多湾の港町はどちらが支配していたのですか?

伊藤教授

大友、大内でうまく港を分け合っていました。地図上で赤の輪がついている箱崎や姪浜は大内の港で、緑の輪が付いている香椎や今津は大友です。

八尋

博多湾の入口にある志賀島は大内で唐泊は大友。ここも分け合っていたんですね。

伊藤教授

志賀島と唐泊をどちらか一方に支配されると、海上封鎖される恐れが出てきます。だからお互いに、博多湾の入口は死守するわけです。

八尋

大友と大内だとどちらが優勢だったんですか?

伊藤教授

優勢なのは大内氏。京都にも直接足を運んで、中央の政治にも影響力を及ぼしています。歴史的に見て、関門海峡の両サイドを広域にわたって支配したのは大内氏だけなんですよ。