九州大学 伊藤幸司教授 × 八尋由紀社長
目から鱗の連続!中世の博多にタイムスリップ

複数の港が連携して博多湾の貿易を支える
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伊藤教授
ここで、中世の博多湾がどんな構造をしていたのかを見ていきましょう。
八尋
博多湾には港がたくさんあったんですね。
伊藤教授
博多湾の内と外では全然波の高さが違います。玄界灘は波が荒いけど、博多湾に入ると穏やかになるので、港としてはうってつけです。当時は、複数の港町の複合体が国際貿易港博多を形作っていたんですね。
域内港としての役割
- 香椎、箱崎(筥崎宮)-多々良川-筥崎宮領、首羅山、高鳥居城
- 博多(聖福寺、承天寺)-御笠川・那珂川-聖福寺領、承天寺領、大宰府
- 姪浜-室見川-聖福寺領(山林資源)
- 今津-瑞梅寺川-仁和寺領怡土庄
- 志賀島、唐泊-北部九州沿岸を航行する船舶の風待ち港

八尋
資料を拝見すると、港が赤と緑の丸で囲まれていますが・・・・・・。
伊藤教授
赤い丸で囲んでいる港、つまり香椎、箱崎、博多、姪浜、今津は、後背地を抱えている港です。これらの港は、だいたい河口に位置します。博多だったら那珂川や御笠川ですね。つまり、川を通じて陸の世界とつながっているということです。川を使って港へいろいろなものを運搬していたのです。
八尋
後背地の積出港としての役割があったんですね。緑の丸で囲まれている志賀島、能古島、唐泊の役割は?
伊藤教授
風待ちのときに船が待機する港です。しかし、博多湾の構造を考えると、どうも、風待ちのためだけに使われていたわけではないようです。当時の博多湾は西側が深くて東側が浅い。荷物をぎっしりと積んだ外洋船がここまで入ってくると座礁してしまいます。そう考えると、大きな外洋船は風待ちの港に係留して、そこから荷物を運ぶのが妥当ですよね。
八尋
博多湾全体で、港の使い分けがあったということですね。
志賀島、能古島、唐泊は喫水が深い外洋船の投錨地、小舟に乗り換えて博多へ

伊藤教授
1艘の船に膨大な荷物を積んでしたという話がありましたが、そのすべてを博多で消費するわけではありません。入ってきたものをそこから京都に持っていく。また、全国から集めたものを中国に輸出する。ということは、運んできたものを全部博多に荷揚げする必要はないわけです。
八尋
そうなると京都に運ぶものを保管する倉庫みたいなものも必要ですね。
伊藤教授
ある史料によると、硫黄は志賀島と能古島と箱崎で保管していると書いてあります。当時の箱崎の港は、現在の海側ではなくて、多々良川の方にあったんです。そこは結構船が着きやすかったんじゃないかと。そういうふうに考えていくと、外洋船を泊めるところ、資本が集まるところ、倉庫があるところみたいな感じで、博多湾全体で仲良くやっていたのではないかと、私は考えています。
八尋
現在も箱崎はそんな感じなんですよね。箱崎には相互運輸の輸入木材の倉庫があります。そのルーツはこのころにまでさかのぼるんですね。