九州大学 伊藤幸司教授 × 八尋由紀社長
目から鱗の連続!中世の博多にタイムスリップ

日本の経済を動かしていた銅銭も大陸から
(7 / 15)
八尋
韓国の沖合で沈没した船から銅銭が見つかったとおっしゃっていましたが、これは貨幣として日本で使っていたということ?
伊藤教授
そうです。当時、日本では貨幣を造っていなかったので、銭を輸入して使っていました。そう聞くと「日本て変な国だなぁ」と思われるかもしれませんが、現代でも、仮想通貨のように、政府が公認していないのに民間で流通しているマネーがありますよね。それと同じです。銅銭はお金として使われたほかに、溶かして活用されていたようです。鎌倉の大仏を分析すると、一部にこの銅銭が使われていたことがわかりました。
八尋
なるほど。でも、銅は日本でも採れたんじゃないですか?
伊藤教授
確かに採れたんですよ。鉱山もあるし、奈良の大仏を造った実績もあります。奈良の大仏の時代の銅は酸化銅から抽出したものですが、平安時代の途中には、この酸化銅を掘り尽くしちゃって採れなくなってしまいます。酸化銅のほかに硫化銅というものもあって、日本ではそちらの方が埋蔵量は多かったんですが、当時の日本の技術では、硫化銅から銅を抽出することができなかったのです。その結果、銅は輸入に頼るようになってしまいます。硫化銅から銅が採れるようになるのは15世紀からです。
八尋
銅銭は腐らないし便利だからお金として使うようになったんですね。
伊藤教授
これとは逆に、日本から中国にお金が流れることもありました。どうしてそれがわかったかというと、中国の貿易の拠点、寧波に石碑が立っていて、そこに「日本国太宰府博多津」なんて文字が刻まれているんです。その碑文によると、博多に住み着いていた宋人の丁淵という人が、寧波のお寺の参道を整備するために銭10貫文を寄進したそうです。つまり、国境を越えて寄付行為が行われていたということです。
八尋
いかに博多と中国大陸が密接につながっていたのかということがわかりますね。
伊藤教授
このころは、お話したように大宰府が貿易を管理していました。しかし、国のシステムが変わって中央集権ではなくなっていった結果、12世紀の中ごろには管理することをやめてしまうんです。そうなると、宋海商は以前よりも自由となり、唐房を出て日本社会にどんどん入っていきます。