九州大学 伊藤幸司教授 × 八尋由紀社長
目から鱗の連続!中世の博多にタイムスリップ

低迷期を乗り越え、九州の中心に返り咲く
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伊藤教授
先ほど、大内氏の支配地で石見銀山が開発されたという話が出ましたが、16世紀に、この銀山を直接開発したのは、博多商人・神屋寿禎なんですよ。有名な博多の豪商、神屋宗湛も彼の一族から出た人です。しかし、この銀山の開発は、博多という町にとっては諸刃の剣となってしまいます。
八尋
銀がザクザク採れてみんなハッピーなのでは?
伊藤教授
それがそうではないのです。石見銀山の開発によって、日本は一躍「銀の国」として脚光を浴びます。ヨーロッパの地図にも石見銀山が出てくるくらいです。いろんなところから外国の商人が銀を目がけて日本にやって来ました。中国からも多くの商人が詰めかけます。そして、その中国人たちがなにを行ったのか? 九州の色々な土地に自分たちが住む唐人町をつくったのです。11世紀半ば以降16世紀半ばまでは、ずっと博多がダントツの国際貿易港でした。九州に港は数あれど、荷揚げしたものを国内流通に乗せるという点で、博多がナンバーワンだったのです。しかし、九州のあちらこちらに中国人の町ができると、博多の独自性が薄れていくわけです。その代わり、長崎や平戸が貿易港としての存在感を高めていきました。
八尋
博多はワン・オブ・ゼムになってしまったんですね。
伊藤教授
加えて、博多を守ってくれていた大内氏が滅びます。その結果、都市としての博多は不安定化します。何度も戦火に巻き込まれて、戦国時代には焼け野原になっちゃうんですね。
八尋
その博多の町を復興したのが豊臣秀吉ですよね。


出典は荒野泰典「江戸幕府と東アジア」(『日本の時代史14 江戸幕府と東アジア』吉川弘文館、2003年)。
伊藤教授
秀吉はいわゆる太閤町割と呼ばれる都市整備事業を行いました。現在の博多の道は、その太閤町割をベースにしています。その後、関ヶ原の合戦を経て、黒田が入って来ます。黒田は博多ではなく、かつて鴻臚館があった台地の上に福岡城を築きます。こうして、商人の町・博多と武士の町・福岡という2つの構造ができあがります。
八尋
江戸幕府は、鎖国政策を取りますね。
伊藤教授
そうなると博多の国際性はなくなって、単なる国内港になってしまう。では、江戸時代が終わると博多が復活するかというと、そういうわけにもいかないんですよね。江戸時代250年の間にずいぶん状況が変わってしまった。九州の経済の中心は長崎、政治的・軍事的中心地は熊本、筑豊炭田とのつながりで工業都市として発展するのは、北九州市。
そして、陸と海の玄関口は、大陸との関係もあって門司になってしまいます。
八尋
博多・福岡にはつけ入る隙がないですね。福岡が復活するきっかけはなんだったのですか?
伊藤教授
空の玄関口になったことです。1936年、雁ノ巣に東洋一の飛行場を建設します。これが大きかったですね。実は、福岡市も北九州市のような重工業都市を目指したのですが、後背地に大きな炭鉱がなかったのでなれなかった。でもなれなくてよかったんです。時代の移り変わりのなかで、重工業都市だった北九州は斜陽を迎えます。対して、福岡市は重工業都市になれなかったから、商業都市へ舵を切れた。その後、新幹線が博多駅までやって来て、人口も北九州市を抜いて、いまや九州の中心都市であり、陸海空の玄関口になっています。しかし、歴史を紐解いてみると、さまざまな歴史的な要因が重なって、現在の福岡市の隆盛につながっているわけです。いまから100年後、博多・福岡がどんな町になっているか、非常に興味深いですね。